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お盆を考える ― 旧暦考(3) ―

  • コラム「環境と社会」

毎年8月13日から15日にかけては、日本中が「お盆休み」という夏期休暇期間となります。この期間、行楽地は人で溢れ、そこに向かう高速道路は大渋滞となります。

私たちにとって、とても馴染みのある「お盆」とは、本来は「盂蘭盆会(うらぼんえ)」と言う、祖霊を死後の苦しみの世界から救済することを目的とした仏教の行事です。この行事は、旧暦7月13日から15日を中心に行われ、種々の供物を祖先の霊・新仏・無縁仏(餓鬼仏)に供えて冥福を祈ります(※1)。旧暦7月は、季節でいうと秋。つまり、お盆は秋の行事なのです。

お盆の期間については、旧暦が廃れ、新暦が広く使われるようになると、旧暦と新暦の日にちの数え方の違いから混乱が生じるようになりました。

今年の旧暦のお盆は、新暦の8月23日から25日にあたりますが、昨年のお盆も、来年のお盆も、今年とは異なる日にちなのです。

そのため、多くの地域では、旧暦のお盆に近い期間として、8月13日から15日(または16日)に行事を行うようになりました。一方、新暦の7月13日から15日に行う地域もあります。他に、旧暦の期間を忠実に守り、その時期に行う地域もあります。

この期間、一般には墓参・迎え火・僧侶の仏前での読経・送り火を行い、身近な死者に思いを馳せ、彼らとの交流を楽しむ習慣があったようです。

思想史家の渡辺京二氏が、著書『逝きし世の面影(※2)』のなかで引用した、長岡藩元家老稲垣家の盆行事の記述によると、先祖がまるで生き返って、この世の人々を訪ねてきて過ごす数日間は、とても楽しい日々であったようです。渡辺氏によると、私たちの祖先は、「現世を越えつつしかもそれと浸透しあう霊の世界の存在」を信じ、毎年、そこから先祖がやってくると考えていたといいます。

翻って、現代における「お盆」では、死者との交流は影を潜め、単なる形式的な儀式になってしまった感があります。

 

霊の世界を信じない私たちも、いずれは死を迎えなければいけません。

私たちは、ひとたび死と向き合えば、死とはいったい何なのかについて、それまで誰からも説明を受けたことがなかったことに気づくでしょう。

心肺機能が停止し、脳も働かなくなって死を迎えると、私たちの肉体はバクテリアによって刻一刻と分解を始めます。そして、火葬場で高温で焼かれると、もはや死んだ人の姿はそこになく、粉々に砕け散った骨が散乱しているだけです。

自分も最後はかさかさと音をたてる、ただの骨となってしまうのか。

自分も結局は「無」になってしまうのか。

それを思うと、私たち現代人にとって、死はあまりにもむなしい現実でしかありません。本当に人の死が、むなしい「無」でしかないのであれば、人の人生の意味もわからなくなってしまいます。

私たちとは異なって、私たちの祖先は、死を迎えた人が「無」となってしまうのかという問いに対して、どうやら答えを持っていたようです。人の死後の行き先として信じてきた「霊の世界」が迷信だとしても、それを信じることが、自分がいずれは消滅してしまうという恐怖や苦悩を和らげる機能を持っているならば、その存在意義を、改めて考えてみる必要はあるかもしれません。

 

※1 新村出編著『広辞苑 第六版』岩波書店(2008年)

※2 渡辺京二『逝きし世の面影』葦書房(1998年)

 

(「環境社会学」 担当 名本)