授業紹介(No.2)学部の講義「環境倫理」で「自然観」について学びます

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学部の講義「環境倫理」で「自然観」について学びます

環境社会学部では、学校法人城西大学の建学の理念である「学問による人間形成」を踏まえ、環境に関する諸課題を、グローバルな視点で考え(Think Globally)、具体の課題について、地域との連携の中で実践的に取り組むこと(Act Locally)を通じて、「持続可能な社会(Sustainable Society)」の形成に貢献できる環境人材の育成を目指しています。

学部学生は、1年時には、環境について、「統合的な視点」に立って、幅広く学ぶことで、環境についての基礎的知識を体系的に学んでいきます。具体的には、環境政策、環境関連法、環境経済、環境社会、環境倫理、環境ビジネス等についての基礎を学びます。

以下に「環境倫理」の講義を担当している瀧准教授から講義の骨子と講義の中で学生からの提出のあった小論文を紹介します。

担当教員からのメッセージ

環境社会学部准教授 瀧 章次

一年次選択科目「環境倫理」では、環境問題を引き起こしてきた人間の活動の背後にある自然観について考察することともに、さまざまな近代の環境思想や近年の「気候変動に関する国際連合枠組条約」はじめ環境法の根底になっている倫理的原理を批判することを授業の中心としている。

例えば、「人間」あるいは「人間にとっての価値」を対象としてきた倫理的原理を、「環境」、「動物」、「生態系」に拡張する倫理説として「倫理的拡張主義」に関連した資料集では、次のようなテキストを教材として扱っている。

「Text 1  A.C. ピグー (Arthur Cecil Pigou (1877-1959), イギリスの経済学者) 『厚生経済学』(The Economics of Welfare)(1920) において、環境問題は、私的利益の形成によって形成されている市場と重層的に存立している社会全体の便益-損失の問題として、私的利益追求という行動に損益計算として組み込まれるべきであるという考えを表明。環境問題を外部不経済、市場の失敗として捉える考え方の出発点となる。倫理学的原理として考えると、市場という社会システムが資源を適正に分配するシステムということを根拠として、山や川とか生態系という価値を、市場の価値に還元することが、そうしたものを最適に管理できるとする考えを拓いた。」

「環境倫理」課題小論文:「宇宙史、人類史におけるわれわれの位置に関する考察に基づく、<モノ>と<イキモノ>と<ヒト>との違いについて」

環境社会学部 1年 三宅湧希 (千葉県立東金高校出身)

「ビッグバンにより宇宙が誕生したのは約138億年前、しかもこうしている今も宇宙は膨張し続けている。そう考えると人類の歴史はまだ短く、未熟なものに思えてしまうが、その短い時間で人類は進化し、様々なものを手に入れた。中でも他の生物にはないであろう「自覚」する能力を得たことは、今こうして人類が生態系の頂点に立っているかのように地球を支配していることに大きく関わっていると私は思う。自分を「自覚」することが、より難しい「思考」を行うことを可能とし、知識という大きな武器になったからである。ただ、宇宙史という大規模な視点で人類を見ると、私はそこに意味を見出せない。地球が消滅し、人類が滅んでも、宇宙はこれまで通り膨張し続けるであろう。それこそ広い庭に勝手に小さな花が生え、勝手に枯れても庭の主に気づかれないように。いくら人間が知力を尽くしても、進化しても、宇宙という広大すぎる存在の前ではほんのちっぽけなもので、いずれ消えてなくなるようなもろいものであり、今の私達も宇宙史という長い線のほんの一点でしかないのだと私は思う。

だからといって私は何も今の人類に意味がないと言うつもりはない。いかに人類が宇宙の中で小さなものだとしても我々が存在しているという事実は変わらない。それに、宇宙で存在し続けるということこそが、人類全てにとって幸福とは限らない。人類史という視点で見ればむしろ今の人類はこれからの人類のあり方を、あるいは、これからの地球のあり方すら変えかねない重要な分岐点に立っているのではないかと私は思う。人類のあり方が大きく変化した例として一つ挙げるならば、農業社会の始まりがある。これまでの狩猟、採集による食物の確保に比べてはるかに安定して大量に食物を得られるようになったのは人類にとって大きな進歩である。しかし人間はこの分岐点における選択で大きな過ちを犯したこともある。産業革命では多大なエネルギーと技術の進歩へつながったが、今に残る環境問題という大きな傷を残した。話題となっている原子力発電所問題も、今の人類には手に余る強力なエネルギーを完全に制御しきれない状態で使用した我々の失敗と言える。産業革命から始まる環境問題に加え今日勃発している地球の異常、これらをふまえて今後人類はどうあるべきか、今、我々はそれを考える立場にあると私は思う。

前述のことをふまえて、<モノ>、<イキモノ>、<ヒト>との三種の違いについて論じる。まず、<モノ>と<イキモノ>の違いについて述べる。この両者の違いで最も大きいことは「意識の有無」であり、そこからさらにさまざまな違いが生じるのだと私は考えている。「意識」が生まれれば「目的」が生まれる。その「目的」を達成するために、あるいは、外部からの刺激に反応して、「行動」する。これらのことを<イキモノ>の特徴とするならば、物理化学の法則に従うだけの<モノ>は極めて受身の存在と言えるであろう。

上記にもある<モノ>を受身の存在とした見方は、<ヒト>と<モノ>を対比した時にはより一層濃くなっているのではないかと私は思う。<ヒト>も<イキモノ>同様に「意識」を持ち、そこから「目的」を達成するために「行動」するが、その「行動」を起こすためには<モノ>の力を借りることが多い。火をおこすという「行動」には火種になる<モノ>が欠かせないし、肉や魚といった食料を手に入れるためにも狩りの道具という<モノ>がなければ、<ヒト>はほぼ何もできないだろう。もしも<モノ>に「意識」があろうものならば、地球上で<ヒト>ほど弱いものはないだろうと私は思う。

ではなぜ「意志の有無」という点でのみアドバンテージを取っているような<ヒト>がありとあらゆる種類がいる<イキモノ>を押しのけて地球上を支配しているかのように振る舞えるのか。その理由にこそ<ヒト>と<イキモノ>の違いがあるのではないかと私は考えている。<ヒト>と<イキモノ>の違いでよく挙げられるものの中に「言語」がある。他の動物にはできない複雑なコミュニケーションを取ることこそが<イキモノ>にはない<ヒト>の長所であるとする考え方である。確かに「言語」は<ヒト>の独自の文化とも言えるであろう。しかし見方によっては、<イキモノ>としての進化という風にも見えなくはない。<イキモノ>同様に生存するための進化、それがたまたま<ヒト>の場合にはコミュニケーション能力が特化していっただけだったとも言える。では<ヒト>と<イキモノ>の根本的違いとは一体何か。その答えは、今まさに私がしていること、つまり、「無意味な思考」なのではないかと私は考える。<イキモノ>はそのようなことはしない。いくら哲学的思考にふけったところでエサや水がもらえるはずもない。それは<ヒト>も同じだ。しかし<ヒト>はあえてその「無意味」な思考を行うことによって他の<イキモノ>にはない能力、「自覚」することができるようになったのではないかと私は思う。<イキモノ>は今の自分たちのあり方を否定しない。どんなに過酷な環境にいたとしても、せいぜいその環境になじもうとするのが普通なのだろう。そもそも環境が悪いことさえ当然のことなのである。しかし「自覚」することのできる「ヒト」の思考は違う。自分たちのいる環境は不便だ、より便利な環境の方がいいと、地球のあり方さえも変えてしまうのである。このような所から鑑みるに、<イキモノ>に比べてはるかに欲が深いことも<ヒト>の特徴なのではないかと私は考えている。もちろん<イキモノ>にも欲はある。だが、食欲や睡眠欲といった生物として当たり前のものばかりで、全ては生きるために必要なものばかりである。しかし<ヒト>の欲は、娯楽などの全く生存に関係のない欲を数多く持っている。そしてこの欲もまた、<ヒト>が「自覚」する能力を手に入れるのに欠かせないものだったのではないかと私は考えている。<イキモノ>も必要な欲から進化しているものもいるだろうが、とりわけ<ヒト>の欲は多い。それを満たそうと頭を回転させれば<イキモノ>にはない能力に目覚めて当然だと私は思う。

だが、この<ヒト>の独特の進化がもたらしたのは知恵だけではない。地球の環境が悪化しているのはまぎれもなく<ヒト>の欲のためだ。今後<ヒト>は<モノ>にも<イキモノ>のどちらにもできない環境保全にも力を入れていく必要があると私は考えている。」