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失敗を恐れず、逆風にも負けずに夢を実現 卒業生インタビュー

ジェットスター・ジャパン株式会社
機長 佐藤豊さん(4期生・人文学部=現国際人文学部=卒)

成田国際空港を離着陸する飛行機が上空を行き交い、吹く風には九十九里の海を感じる千葉東金キャンパス。この環境が育んだ人材ともいえるのが、人文学部(現国際人文学部)国際文化学科を1999年3月に卒業した佐藤豊さんです。在学中はサーフィン部のキャプテンとして活躍し、現在はジェットスター・ジャパンで機長を務める佐藤さんに、学生時代の思い出とパイロットになるまでの道のり、後輩へのメッセージを伺いました。

 

「なりたい職業ランキング」で不動の人気を誇るパイロット。現在放送中のNHK連続テレビ小説「舞いあがれ」をはじめ、多くの人が憧れる仕事としてドラマにもしばしば登場しますが、能力と適正が厳しく問われる狭き門なのは言うまでもありません。佐藤さんも子どものころから夢は抱いていたものの、そのまま一直線にパイロットを目指したわけではありませんでした。「16歳のときからずっとサーフィンに夢中で、高校時代も毎週九十九里に通っていました」と、成長するにつれ、空よりも海に興味は向かっていました。

 

進学先に本学を選んだ動機も、サーフィンでした。「家からも海からも近いということもありましたが、何より当時のサーフィン部は全国でも有数の実力を誇っていました。『ここ以外にない』と思ったほど、一番行きたい大学でした」。また、「世界に目を向けた取り組みを始めた新しい大学という点にも惹かれ、国際文化学科を選びました」と、勉強面でも将来をしっかり見据えての選択でした。

 

佐藤さんが入学した時の本学は学部生が1年生から4年生までようやくそろったタイミングで、大学そのものも成長途上にありました。その躍進に大きく貢献したのが、サーフィン部です。1年次からめざましい活躍を見せた佐藤さんは、3年になると同時に部長に就任。「全日本学生サーフィン選手権」をはじめ、各大会で次々に優勝を重ねます。「チームとして何連続優勝したか分からないくらいの黄金期で、部員も60人は超えていました」。ファッション誌にも取り上げられるほど注目を浴び、プロのサーファーも輩出するなど、城西国際大学の名を全国に広めてくれました。

 

華やかな活躍を支えていたのはもちろん、部員一人ひとりの日々の努力です。サーフィンボードを積んで海まで行くには、車は欠かせません。ボードも年に1回は買い替えなければならず、大会のため海外に遠征することも。佐藤さんも資金作りのためのアルバイトと練習に追われる毎日でした。「夜中に働き、睡眠不足のまま授業に出ていました。でもやりたいことに没頭していたので、常にワクワクしていました」。授業中も睡魔との闘いでしたが、学ぶことの大切さと面白さに気づくきっかけをくれたのもまた、サーフィンでした。「1年の冬に先輩とインドネシアに行き、2週間現地で練習したのですが、そこで日本との価値観の違いに直面したり、語学力が足りないことを痛感させられたりしたのです」。もっと世界を知りたい、世界に羽ばたきたいという思いが募り、勉強にも意欲的に取り組むようになったと言います。「英語でレポートを書かなくてはならなかったのですが、翻訳アプリなどない時代だったので、辞書を引いたり堪能な人に聞いたりして、必死で仕上げました。そうした努力が血となり肉となって、いまに生きています」

 

充実した佐藤さんの学生生活も、いよいよ就職活動の時期に。「みんな一斉に就活を始め、名の知れた会社の内定を目指していましたが、自分は何となくしっくりこず、同調し切れずにいました」。その一方で、このままずっとサーフィンを続けるという選択も現実的ではないと感じ、これからやりたいことを本気で考えた佐藤さんの脳裏に浮かんだのは、子どものころに抱いたパイロットになる夢。「それを実現させるのがどれだけ厳しいかもさすがに分かる年齢だったので、航空関連の仕事に就いて世界の文化に触れたいと、いろいろな仕事を調べてみました」。その結果、どの職種であろうと採用を勝ち取るのはそう簡単ではないと分かり、「いっそのこと、一番やりたい仕事をできるところまで目指してみようと、覚悟が決まりました」と当時の心境を振り返ります。

 

さっそく「パイロットになるには」を調べてみると、裸眼視力が足りないことが判明。ショックを受けますが、さらに探ると、海外であればライセンスを取得できることが分かり、サーフィンでもなじみのあったオーストラリアで訓練を受ける道を選択します。バイトで貯めたお金をかき集め、卒業後、一路シドニーへ。まずは英語の勉強に専念しました。「語学学校に3カ月間だけ通い、あとは自力で学んで費用を節約しました。日本での英語教師歴があり、現地でサーフボードの輸出をしている方がいたので、その方の仕事を手伝いながら、英語で書いた日記を添削してもらいました」

 

1年後、ブリスベン近郊に移り、いよいよ訓練開始です。ドイツ、イタリア、台湾など世界各地から集まった仲間とともに、学科訓練、フライト訓練の毎日を送るうちに、日本の航空身体検査の基準が緩和され、佐藤さんの視力でも受験可能になりました。当時の日本では、航空会社による自社養成か航空大学校を経てパイロットになる人がほとんどで、佐藤さんのように自分で免許を取るケースはまだ稀でしたが、「この先パイロット不足が訪れることは確実なので、日本で就職できる可能性もある」と佐藤さんは判断し、帰国を視野にさらに努力を重ねました。

 

滞在費用が尽きそうになり、借金もしながら頑張り抜くうちに、自力で免許取る人を対象とした低金利の融資制度ができたり、パイロットの採用枠が急増したりと、どんどん追い風が吹き始め、見事にライセンスも取得。日本の免許への書き換えもでき、2006年に晴れてスカイマークに就職を果たしました。「ライセンスを取り、職を得たうえで、それぞれの機体を運航する資格を得なければ操縦桿を握ることはできません。求められる技量に期限内に達しなければ戦力外で、就職後に脱落していく人もいます」という厳しい世界で佐藤さんは力を発揮し、副操縦士として活躍。5年間の経験を積んだころ、オーストラリアに本社を置くジェットスターが日本でも就航するというニュースが飛び込んできました。縁を感じた佐藤さんは社を移ることを決意。新たな環境で再スタートを切りました。機長にも昇格し、成田国際空港を拠点に、多くのクルーを束ねて国内外の各地を行き来する毎日を送っています。

 

「忙しいときには一日で北海道を2往復したり、国内を3回飛んだりすることも。その合間を縫って上海や台北に日帰りで行ったこともありました。体調管理に加え、気持ちをどうコントロールするかも大切です」という日々。「お客様はもちろん、クルーの家族、自分の家族への責任を背負って飛ぶのが機長。常に先々を考え、予期できることにしっかり備えなければなりません」。知識や技術だけで果たせる職務ではなく、「コミュニケーション力をはじめとするさまざまな適性が求められる」と佐藤さんは語ります。そうした能力を磨くために佐藤さんは「毎日毎日のフライトの中で、『今日はこれを学んだ』というものを見つけようと心掛けています」と、ベテランとなってもなお向上心を忘れることなく、努力を重ねています。

 

思いもよらぬコロナ禍で、佐藤さんも飛べない日々が続きました。「いろいろ考える時間ができたおかげで、この仕事が本当に好きなんだと改めて分かり、空を飛べること、安全に運航できることに感謝の気持ちを抱けるようになりました」。航空業界全体がもっといい方向に進んで、空の旅がより安全になるように「後輩の教育や安全に関する活動に携わりたい」という思いも芽生え始めたと語ります。

 

本学で学ぶ後輩たちにも「大学で学んだことをベースに、自分のやりたいことや適性を見つけて、可能性を信じて挑戦してほしい」とエールを送ってくださいました。「『ああしたい』『こうなりたい』と目標や信念を持つと、どこかでリスクを取らなければならなくなります。でも、若いうちは失敗しても取り戻せる。挫折から這い上がるバイタリティーを身につけてほしいです」と語る佐藤さんは、自身のことも「成長途上」だと受けとめています。「航空業界は日々進化し、どんどん新しいことが入ってきます。毎日が新鮮で、やりがいに満ちています。若い世代に期待しつつ、自分も負けずに最前線でチャレンジし続けます」

JIUでの思い出の一枚

サーフィン部の仲間と、大会での優勝を祝って記念撮影(2列目左から4人目が佐藤豊さん)